尋三の春より

 大倉先生の授業がはじまって間もない日のことであった。
私は今年こそ納屋に入れられぬように勉強しようと決心していた。
けれども、もちろん、学校から帰ると晩までは小さい妹を背負い、
時には大きい妹の手までひいて子守をしなければならないし、
夜は夜で薄暗いカンテラの明りで
紙袋貼りなどしなければならなかったので、
家で予習復習などすることは出来なかった。
教室で精一杯に緊張するより外なかったのである。
私は何より横見をしてはならぬと自ら戒めて、
一所懸命に前を向いていることにした。

 或る日、それは筆筒も鉛筆も机の上に出していなかったから
多分修身の時間であったろう。
私は先生の話をきいていると、
窓の外の桜の花がひらひらと風に吹かれて本の上に落ちて来た。
掌でそっとはらいのけても、
桜の花びらは又ひらひらと机の上に舞い落ちて来た。
私はこれは勉強の邪魔になる、と思った。
一年生と二年生との時にそういう躾をされていたのである。
教室のいちばん南側にいた私は、
立ちあがって硝子窓をがらりと閉めてしまった。
すると大倉先生は喋っていた話をやめて、
「おい、おい、開けといても、かまやせんじゃないか。
花見をしいしい勉強するのも面白えじゃないか」と、
私の方を見い見い笑った。
私は耳の根まで真赧〈まっか〉になって閉めた窓を開け直した。
あれは、今思い出しても昨日のことのように頬がほてる。

・・・・

木山 捷平 尋三の春 昭和10年

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